家族一人ひとりが「しあわせ」に生きていくために。

作家

岸田 奈美

私が福祉・介護を頼るのは、家族一人ひとりが幸せに生きていくため

キャリア

岸田 奈美

高校生の頃、母が病気で下半身麻痺になり車椅子生活に ↓ 2020年9月、おばあちゃんの認知症が悪化し、小規模多機能型居宅介護の利用をスタート ↓ 2022年、知的障害のある弟がグループホームで暮らすように 週末は移動支援を利用し、プールやカラオケなどお出かけを楽しむ ↓ 現在は、週末に神戸の実家に家族が集まり、みんなでご飯を食べる日々

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家族一人ひとりがそれぞれの場所で生活する“戦略的一家離散”中

福祉・介護の話...の前に、まずは私の家族構成から話しておこうかな。私の家族は、私が高校生のときに病気で下半身麻痺になり車椅子生活をしている母、生まれつき知的障害のある4歳下の弟、認知症のおばあちゃんの4人家族。父は、私が中学2年生のときに心筋梗塞で倒れ亡くなっています。この情報だけだと「大変そう」と思うかもしれないけど、今現在岸田家は“戦略的一家離散”を取り入れていて(笑)。文字通り、戦略的に家族それぞれが各々の場所で生活していて、週末になると神戸の実家に集合し、顔を合わせながらご飯を食べて英気を養うスタイル。
 
その戦略を遂行するために、私たち家族はめちゃめちゃ福祉・介護サービスを利用しています。弟はグループホーム、おばあちゃんは小規模多機能型居宅介護という通いも泊まりも訪問もできる事業所で暮らしていて、母は3年前まで家事援助を利用していました。今は家事援助を利用していないんだけど、それは母が自分でなんでもできるから。実家も、交通手段である車も、車椅子に乗る母に合わせた設計になっているから一人でも十分に生活できるんです。私は実家とは別に家を借り、作家の仕事をしています。
 
って、今だからこんなふうに話せるけど、この“戦略的一家離散”スタイルに辿り着くまでの2年間はとにかく大変で、心身ともにめちゃくちゃしんどかった。そんな2年間は、車椅子をブンブン乗り回していた母が重度の感染性の病気に罹ったことから幕を開けました。
 

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母のお見舞い、祖母の認知症の悪化、弟の不健康…てんやわんやな毎日

母は11時間もの大手術を経てなんとか一命を取り留め、当面の間は入院生活に。それまで家を守っていた母の代わりに私が頑張らねば!と奮起したタイミングで、なんとおばあちゃんの認知症が悪化。話が通じなくなり、ご飯を食べたことを忘れて暴飲暴食。その影響で私と弟の食生活も乱れ、弟は健康診断で引っかかってしまい、私は家事にまで手が回らず家が荒れる一方...。おばあちゃんのことを気にかけながら母のお見舞いにも行くという、てんやわんやな毎日。家族の中で唯一の稼ぎ頭であるはずの私は、仕事がまったく手につかなくなりました。
 
にっちもさっちもいかなくなった段階で、ようやく「頼れるものを全部頼っていかないとダメだ!」と気がつき、さっそく母に「福祉や介護サービスを頼ろう」と相談へ。だけど実は、母がなかなか首を縦に振ってくれなくて。なぜなら、それまで家のことは全部自分がしていたから、できなくなってしまった申し訳なさや罪悪感、そして「周りに迷惑をかけてはいけない」「家族の問題は家族で解決する」という母の固定観念があったから。葛藤する母の気持ちも痛いぐらいわかるけど、そうは言っても私だって限界だった。「あのね。お母さんがダメなわけじゃなくて、私が幸せに生きるために誰かを頼りたいの」そう母を説得し、ついに第三者に頼ることになったんだけど「第三者に助けを求める」、これが次の難題だったとは。
 

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「頼る」「助けを求める」は、練習しないとうまくならない

おばあちゃんの介護認定調査のとき、調査員から「おばあちゃんの様子はどうですか?」と聞かれ、私は思わず「そうですね、大変なんですけど大丈夫なときもあります」と答えてしまって。本当は仕事がままならないくらいしんどいし、まったく大丈夫じゃないのに口から出るのは「大丈夫」という言葉ばかり。そこでハッとわかったのは、私自身それまで困っていることを明確に言葉にして、誰かに「助けて!」と言った経験がほとんどなかったということ。日常生活の中でいかに、「大丈夫」が癖になっているかを思い知らされました。
 
今だからわかるのは、福祉や介護を頼るときにまずしなければならないのは、「大丈夫」のブレーキを外すこと。そして、「辛い」ことは「辛い!」と3割増にして伝えないと相手には伝わらないということ。私は「これでもまだ伝わらないのか!」という絶望と、「ようやく伝わった!」という喜びを繰り返して、徐々に大変さや辛さを伝え、適切に第三者を頼れるようになりました。特に、福祉・介護は家族のことを第三者に頼らないといけないから、頼るハードルが一段と高いと思います。多くの人は頼り下手で、誰かを頼るのは回数を重ねないとうまくならないんです。「大丈夫」と思わず、家族のことでちゃんと困って、ちゃんと誰かに助けを求めること。人を頼るのは技術の1つだったんだと、第三者に助けを求めて初めて気がつきました。
 

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一人ひとりが持つケアマインドが、世界を救う

福祉・介護を頼るようになってから1つ驚いたことがあったんですよ。弟の言語能力がね、格段にあがったんです。それは恐らく、知的障害のある人たちとグループホームで一緒に暮らすようになって、自分の心地良い暮らしは主張しないと保たれないことに気がついたからだと思うんですよね。家にいたときは、弟が何をしてほしいか・何をしてほしくないかを家族が察し、先回りして快適な生活を整えていました。それが悪いことだったとは思わないけれど、もしかしたら弟の成長機会を奪っていたのかもしれないなって。きっと弟も初めは、通訳してくれる家族がいないことに不安も悲しさもあったはず。でも、これから先のことを考えると、順当に行けば弟が一番長く生きるから、私たち家族がいなくなったあとでも生きていける力を身につけるために必要な機会が今やってきたのだと考えています。
 
岸田家にとって介護・福祉は、家族一人ひとりが幸せに生きていくための、家族外の頼り先です。想像するに、家族から言われて一番辛い言葉って「あんたのせいで幸せになれなかった」だと思うんです。言われたら辛いってことはつまり、自分も言っちゃダメな言葉。だから一人ひとりがちゃんと自立して幸せにならないと、家族のバランスは崩れてしまう。家族以外に頼れるものを外に増やす、それが福祉・介護でした。福祉・介護職は、クリエイティブな才能と技術が必要な、稀有な仕事。冗談抜きで、一人ひとりが持つケアマインドが世界を救うと私は信じています。
 

アートと子どもに関われるのが保育士だったから

まちの保育園 吉祥寺 保育士 副主任

今村 千咲

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